大永4年(1524)、七代松平清康が安城から岡崎に拠点を移した。 そして享禄4年(1531)狭隘で軍事的にも不十分だった旧岡崎城(明大寺城)を廃し、龍頭山の砦を整備・拡張、新岡崎城(別名、竜城、竜ヶ城)と呼び替えた。
江戸時代に入ると、徳川家康誕生の地として別格の扱いを受けるようになった岡崎は、さらに発展を遂げた。東海道上に岡崎宿、藤川宿の2宿が置かれ、宿場町として栄えた一方、岡崎は城下町でもあったため、防衛上の観点から「二十七曲」と呼ばれる複雑な屈折があった。また、「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」と謡われているように、矢作川と乙川の合流地点にある岡崎は水運の要衝であった。多くの寺社が改修されたのもこの時期である。また、火薬に関する規制が緩やかだったと言われ、今日の花火産業の基礎が築かれた。
明治になり、廃藩置県により岡崎藩が岡崎県となると、岡崎県、ついで額田県の県庁が置かれた。また、東海道本線をはじめとして次々に鉄道が開通した。郡政制度があった時期には額田郡庁が置かれるなどしたが、交通の発展に伴い徐々に名古屋の衛星都市となっていった。
昭和期、アジア太平洋戦争では、岡崎も空襲を受けた。市内を走る路面電車の車庫が燃えてしまったため、急遽京都から車両を調達したこともあった。資材供出のために、西尾への鉄道は休止されてしまった。
市の木:ミカワクロマツ
市の花:フジ
市の鳥:ハクセキレイ
引用リンク: 岡崎市 – Wikipedia.